スティーブ・カールトン
STL(1965-1971)-PHI(1972-1986)-SF(1986)-CWS(1986)-CLE(1987)-MIN(1987-1988)
通算成績 741登板 329勝244敗 防御率3.22 4136奪三振 2セーブ fWAR96.5
獲得タイトル:サイ・ヤング賞4回、最多勝利4回、最優秀防御率1回、最多奪三振5回、ゴールドグラブ賞1回
1972年 41登板 27勝10敗 防御率1.97 310奪三振 fWAR11.1
Lefty
左投手としては歴代2位の329勝、4136奪三振を記録したレジェンド左腕。
カーディナルス時代は右のボブ・ギブソン、左のスティーブ・カールトンの二枚看板を貼り、1967年には14勝、防御率2.98の好成績でチームのワールドシリーズ制覇に貢献。
カールトンにとって転機になったのが、1968年の日米野球。そこでボブ・ギブソンの決め球であるスライダーを王貞治をはじめとする日本打線に試したところ、好感触を掴み、のちにカールトンの代名詞となるボールへと進化した。
尚、日本版のWikiを筆頭にいくつかのサイトではカールトンが東京オリオンズの成田文男選手のスライダーを真似る形で習得したとあるが、実際のところ真偽は不明。
米メディアを漁ってみたが、これといった情報が見つからず、おそらく成田投手のスライダーの凄さを強調するエピソードが飛び火して、いつの間にか「メジャーのエース、カールトンも研究!」のような話にすり替わったものと思われる。
新球種スライダーは威力抜群で69年には防御率2.17をマーク。ところが、当時のカーディナルス首脳陣が故障リスク並びにカーブに悪影響が出ることを恐れて使用NGを宣告し、その後は防御率3点台中盤のシーズンが続いてしまった。
その後、72年にリック・ワイズとのトレードでフィリーズに移籍すると、伝家の宝刀スライダーを武器に無双と言えるピッチングを披露。同年は27勝、防御率1.97、310奪三振と圧倒的な成績で投手三冠に輝き、サイ・ヤング賞を初受賞。
72年はカールトンの活躍むなしく、フィリーズは59勝97敗で最下位に沈み、チームの勝利数の46%をカールトン一人で占めるという謎記録も樹立している。
カールトンは73年こそは13勝20敗、防御率3.90と不振に陥ったが、その後、76年、77年と2年続けて20勝以上を記録するなどフィリーズの絶対的エースとして君臨。
カールトンは80年代に入っても衰えず、80年、82年には投手二冠でサイ・ヤング賞に輝いている。
また、80年代はカールトンにとって歴代最多奪三振投手の座を争う時代。82年から84年までの3シーズンは、ノーラン・ライアン、ゲイロード・ペリーとデッドヒートを繰り広げ、最終的にノーラン・ライアンに敗れたものの、現役引退時点での4136奪三振は歴代2位の記録となった。
カールトンは73年の不振に際して、記者からあれこれ叩かれたことに腹を立て、以後メディアに対して一切口をきかないという対応をしたことでも有名。ちなみに86年にジャイアンツ加入にあたって記者会見を開いたが、その時の質問のほとんどが「なぜ、今になって記者会見に応じたのか」というものだった。
カールトンは、実のところかなりの陰謀論者で、94年に殿堂入りを果たした際に、まことしやかに世界はユダヤ銀行に支配されているだの、エイズは人口的に作り出されただの、物議をかもす自説を45分にわたって語ったようで、カールトンが現役時代に黙り続けていたのは正解だったと思われる。
球種はスライダー、スラーブ。
カールトンのスライダーはハイライトを見るに、昨今流行りの横変化が大きいスイーパータイプ。また、カーブも横変化が大きく、こちらはスラーブを採用。
査定に関して
ノビA・フライボールピッチャー
カールトンのフォーシームは先日作成したシーバーと同じく、浮き上がるような軌道を描くライジングファストボール。
カールトンはこの時代に活躍していた投手の中では、被本塁打がやや多く、1978年にはリーグ最多の30本を打たれている。
驚異の切れ味
伝家の宝刀スライダーに箔をつけるべく採用。
書籍『Guide to Pichers』では、歴代最高のスライダーとしてカールトンのスライダーが紹介されている。