グレイグ・ネトルズ
MIN(1967-1969)-CLE(1970-1972)-NYY(1973-1983)-SD(1984-1986)-ATL(1987)-MON(1988)
通算成績 2700試合 .248 2225安打 390本塁打 1314打点 32盗塁 fWAR65.7
獲得タイトル:本塁打王1回、ゴールドグラブ賞2回
1976年 158試合 .254 148安打 32本塁打 93打点 11盗塁 fWAR8.1
Puff
圧倒的な守備範囲とシーズン30本塁打を狙えるパンチ力が武器の1970年代最強サードのひとり。
ネトルズはインディアンズに加入した1970年に26本塁打を放ち、サードのレギュラーに定着。続く1971年にはサードとしてのMLB最多記録となる54併殺、412補殺をマーク。
この年は守備指標のトータルゾーンでもプラス30と異次元の数値を叩き出していたが、当時はこうした指標が記者に浸透しているはずもなく、ゴールドグラブ賞のタイトルは人間掃除機ことブルックス・ロビンソンに譲ることとなった。
ネトルズは72年オフにヤンキースに移籍。旧ヤンキースタジアムは左打者有利の球場であり、ネトルズもその恩恵を存分に受け、1976年には32本塁打を放ち、本塁打王のタイトルに輝いている。
ネトルズがヤンキースに在籍していた1970年代後半は、ちょうどスタインブレナーオーナーがFAで有力選手を積極補強していた時期にあたり、77年からはワールドシリーズ連覇を実現。
ネトルズもハイレベルな守備でチームを支え、77年から2年連続でゴールドグラブ賞を獲得している。
1980年代に入るとスタインブレナーとの確執が顕著になり、パドレスに移籍。パドレス時代も3年連続で二桁本塁打とパンチ力は健在だったが、サード守備では3年連続でトータルゾーンがマイナスと年齢には抗えず、44歳を迎える1988年を持って現役の座を退いた。
ネトルズは通算打率は.248にとどまったが、通算トータルゾーンプラス136と圧倒的な守備力のおかげでrWAR、fWARともに60点代後半と非常に高く、ベテランズ委員会枠での殿堂入りを支持する声が絶えない。
査定に関して
対左F
ネトルズは左投手に弱く、1976年も対左打率は.187と大苦戦。
ネトルズがインディアンズからトレードとなった理由の一つに、試合途中に左投手がマウンドに上がると当時の監督がすぐ代打をだし、それに対してネトルズが難色を示したことが挙げられている。
対ストレート◯
ネトルズはマイナー時代から速球に自信ニキだったようで、68年には「I'm fastball hitter」とインタビューで話していた。尚、同年はネトルズが速球に強いもののカーブには弱いことがバレ、ネトルズの打撃成績は急降下した。
サヨナラ男
1976年8月17日のレンジャーズ戦でサヨナラ本塁打を記録。
Nishiのこぼれ話
ネトルズは兄弟メジャーリーガー。弟のジム・ネトルズは1975年に南海ホークスでもプレーしている。