サンディ・コーファックス
LAD(1955-1966)
通算成績 397登板 165勝87敗 防御率2.76 2396奪三振 9セーブ fWAR54.5
獲得タイトル:MVP1回、サイ・ヤング賞3回、最多勝利3回、最優秀防御率5回、最多奪三振4回
1963年 40登板 25勝5敗 防御率1.88 306奪三振 fWAR9.2
The Left Arm of God
当時のピッチャーとしては最速クラスの150キロ中盤を超える速球と垂直に24インチ落ちると言われたドロップカーブを武器に3度のサイ・ヤング賞に輝いた“The Left Arm of God”(神の左腕)の異名で知られる歴代最高のサウスポー。
コーファックスはシンシナティ大学在学中の1954年にドジャースと契約。
高いポテンシャルを買われたコーファックスはマイナーでプレーすることなく、翌年の55年にメジャーに昇格。
コーファックスは当時、投手としての経験も浅く、特にコントロールはメジャーレベルではなく、1960年までは防御率4点台のノーコン速球派にとどまった。
本人も大学に復帰する道を考えたほどだったが、1961年のスプリングトレーニングでキャッチャーのノーム・シェリーから「力まずに、カーブやチェンジアップをもっと使って投げてみてはどうか」とアドバイスされると、スピードを維持したままコントロールが格段に向上。
前年5.14だった与四球率は3.38まで下がり、18勝、防御率3.52、当時のナ・リーグ記録を更新する269奪三振をマークとエース級の左腕へと覚醒を遂げた。
1962年からはドジャースの本拠地が投手有利のドジャー・スタジアムに移転したことや、ストライクゾーンの拡張が追い風になり、ここから5シーズン連続で最優秀防御率のタイトルを獲得。
この間にコーファックスは3度の投手三冠&サイ・ヤング賞に輝き、1965年には当時のMLB記録となるシーズン382奪三振をマーク。
また、63年にはコーファックスとドライスデールの二枚看板でチームをワールドチャンピオンに導き、ワールドシリーズMVPにも選ばれている。
全盛期のコーファックスはまさに神の領域に到達しており、パイレーツの主砲スタージェルは「コーファックスから打つのはコーヒーをフォークで掬って飲みようなものだ」とまさにお手上げ状態だったようだ。
圧倒的なピッチングの裏でコーファックスは肩や指など様々な故障を起こしており、アイシングなどの治療を行うも改善されず、66年には肘の激痛に耐えながらのピッチングしていたという。
同年はキャリアハイの27勝、防御率1.73と傍目には最高のピッチングを披露していたが、ワールドシリーズ終了後に現役引退を発表。
コーファックスは殿堂入り投票の対象になった1972年の時点で2000イニング以上を投げた投手の中では歴代3位、先発投手としてはホワイティ・フォードに次ぐ2位の通算防御率2.76をマークしており、有資格1年目で殿堂入り。
現役引退後はドジャースのスペシャルアドバイザーとして活躍。80歳を過ぎてからも時折球場に姿を見せ、89歳を目前にした2024年のワールドシリーズでもスタンドから見守る姿が中継で切り抜かれていた。
球種はドロップカーブ、スラーブ、チェンジアップ。
コーファックスはドロップカーブ以外の球種が割と目まぐるしく変わるピッチャー。今回作成した1963年はまだ肘を痛める前で、スライダー系のボールもレパートリーに入っていた。
査定に関して
ノビA
ハイライト動画では高めの速球で空振りを奪うシーンが多く、歴代最高のショートのひとりアーニー・バンクスも「とんでもなく浮き上がる速球」と賞賛していた。
ドクターK
コーファックスの通算奪三振率は9.28。これは引退時点で2000イニング以上投げた投手の中では歴代1位の数字で、現在でも歴代6位。
内角攻め
コーファックスは同時期にプレーしたボブ・ギブソンやドライスデールのようなヘッドハンターではなかったものの、内角に投げるのは躊躇せず。後に「投球術とは相手に恐怖心を植え付けることだ」とインコースを攻めることの重要性を語っている。