フアン・マリシャル
SF(1960-1973)-BOS(1974)-LAD(1975)
通算成績 471登板 243勝142敗 防御率2.89 2303奪三振 fWAR61.2
獲得タイトル:最多勝利2回、最優秀防御率1回
1965年 39登板 22勝13敗 防御率2.13 240奪三振 1セーブ fWAR6.8
Dominican Dandy
ドミニカ共和国出身の投手としては歴代最多の242勝をマークしたレジェンド右腕。
マリシャルは全盛期がコーファックスやギブソンとかぶってしまったため、サイ・ヤング賞のタイトルには縁がなかったが、1960年代最強のピッチャーのひとり。
マリシャルはオーバー、スリークオーター、サイドと様々なアングルから多彩な変化球をハイレベルなコントロールで巧みに投げ分け、60年代には6回のシーズン20勝以上をクリア。
また、マリシャルは60年代の防御率も2.57と安定感抜群で、これは60年代に1000イニング以上投げた投手の中ではホイト・ウィルヘルム(2.16)、サンディ・コーファックス(2.36)に次ぐ3位の数字。
スタミナもトップレベルで、1960年代は勝利数を上回る197完投を記録。イニング数もドライスデール、ジム・バニングに次ぐ3位。
また、オールスターには無類の強さを誇り、8登板で防御率0.50と圧巻の成績を残している。
こうした60年代の圧倒的なピッチングに加え、史上二人目のドミニカ共和国出身投手という中南米出身投手のパイオニア的存在という側面からも有資格1年目で殿堂入りできそうなピッチャーだが、殿堂入りは有資格3年目まで持ち越し。
その理由は1965年8月22日のドジャース戦で打席に入った際、キャッチャーのローズボロの返球がマリシャルの耳を掠め、それに激怒したマリシャルがローズボロをバットで殴りつけるという蛮行に及び大乱闘に発展。
マリシャルは当時のナ・リーグ記録となる1750ドルの罰金と9日間の出場停止処分が下されたが、多くのファンや有識者は「軽すぎる」と立腹した模様。
この出来事が尾を引き、殿堂入り投票では得票が伸び悩んだが、ローズボロがマリシャルと和解したことを公に発表し、風向きは一転。有資格3年目でドミニカ共和国出身選手として初の殿堂入りを果たした。
ローズボロとマリシャルは後に大親友になり、ローズボロが亡くなった際には、マリシャルが棺を担いだという。
球種はスライダー、カーブ、チェンジアップ、スクリュー。
マリシャルの決め球のスクリューはシンカーをベースにオリ変で再現。
査定に関して
152キロ
前回マリシャルを作成した際は、技巧派という世間一般の評価を踏まえ、140キロ後半で査定したが、マリシャルが「本気を出せば95マイルくらいは出ていた」というコメントを残していることや、MLB The Showでもそれを踏まえてか最速95マイルに設定していることから、今作では95マイル(152キロ)で査定。
変幻自在
マリシャルは前述の通り、さまざまなアームアングルから多彩な変化球をストライクゾーンに自由自在に操っており、打者からしてみればまさに「変幻自在」なピッチャーだった。
奪三振
マリシャルは技巧派ながら三振も狙ってとれるピッチャーで、1965年は240奪三振をマーク。