エディ・マシューズ
ATL(1952-1966)-HOU(1967)-DET(1968)
通算成績 2391試合 .271 2315安打 512本塁打 1453打点 68盗塁 fWAR96.1
獲得タイトル:本塁打王2回
1953年 157試合 .302 175安打 47本塁打 135打点 1盗塁 fWAR8.7
歴代最高のサード候補の一角
マイク・シュミットがMLBで頭角をあらわす前の史上最高の三塁手。
マシューズはサードとしてはトップクラスのパワーを誇り、現役引退時点で三塁手としては歴代1位、MLB全選手でも歴代6位の512本塁打を記録。
マシューズはMLB2年目の1953年に当時のサードとしての本塁打記録かつリーグトップの47本塁打を放つとそこから9シーズン連続で30本塁打(54年から56年にかけては3シーズン連続で40本塁打)以上をマーク。
マシューズはタイ・カッブから「完璧なスイングの持ち主」と称賛され、4割打者ロジャース・ホーンスビーからも「 最も危険な打者」と評価されるなど、若手時代から球界最高のスラッガーとして大絶賛。
マシューズは1954年から1966年にかけて、ハンク・アーロンとともにブレーブス打線の中軸を担い、 二人合わせて通算863本塁打を記録。これは同一チームのチー ムメイトとしての最多本塁打記録となっている。
この二人の活躍に加え、ウォーレン・スパーンの好投もあり、1957年には、 ミルウォーキー・ ブレーブスを世界一に導いている。
マシューズは現役引退後にコーチを経て、72年シーズン途中にアトランタ・ブレーブスの監督に就任。マシューズは監督としての腕はイマイチだったようで、通算成績も149勝161敗(勝率.481)もパッとしなかった。
マシューズは監督時代からアルコール依存症に苦しみ、晩年は野球界からもそっぽをむかれ、2001年に肺炎による合併症で69歳でこの世を去った。
マシューズは選手としては超一流だったが、メディアとの関係は最悪。そのため殿堂入り投票では初年度で当確レベルの成績を残しながら、落選が続き、殿堂入りを果たしたのは5年目のことだった。
査定に関して
引っ張り屋
マシューズは痛烈なプルヒッティングで知られており、対策の一環でマシューズシフトが敷かれたほど。
対ストレート◯・ハイボールヒッター
マシューズは低めのカーブ(変化球)を苦手としており、その逆要素となる二つの青特を採用。