デューク・スナイダー
LAD(1947-1962)-NYM(1963)-SF(1964)
通算成績 2143試合 .295 2116安打 407本塁打 1333打点 99盗塁 fWAR63.5
獲得タイトル:本塁打王1回、打点王1回
1953年 153試合 .336 198安打 42本塁打 126打点 16盗塁 fWAR8.8
The Silver Fox
1950年代はヤンキース、ジャイアンツ、ドジャースの3強時代。
この3球団の共通点は、ニューヨークに本拠地を置いていたことと、センターにマントル、メイズ、スナイダーと絶対的な強打者を擁していたこと。
マントル、メイズは歴代最高のセンターとして今もなお語り継がれているが、スナイダーも彼らに全く引けをとらない強打者で、1950年代に放った326本塁打は同年代の最多記録。
スナイダーはデューク(公爵)のニックネームの通り、堂々としたオーラを纏ったスター選手で、1950年から56年にかけて7シーズン連続でオールスターに出場。
スナイダーはパワーとコンタクト能力を両立させた抜群のバッティングセンスを誇り、1950年代は3割を7回、53年から57年にかけて5シーズン連続で40本塁打以上を記録。
これだけの成績を残していれば、MVPに輝いてもおかしくはなさそうだが、当時のMVP投票では、キャッチャーが有利だったため、獲得ならず。1955年はチームメイトのロイ・キャンパネラにわずか5ポイント差で敗れてしまっている。
スナイダーは、全盛期こそは走攻守揃ったセンターとして君臨していたが、次第にゴロを全く追わない緩慢プレーが目をつくようになり、スリーベースヒットを数多く献上。
ロサンゼルス移転後は、当時の本拠地ロサンゼルス・コロシアムが投手有利な球場だったこともあり、本塁打は20本前後に激減。また、膝の故障や、上記の守備問題もあり、60年代に入るとレギュラーの座も剥奪。62年オフにはメッツにトレードで放出されてしまった。
スナイダーは1980年にアル・ケーラインとともに殿堂入りを果たすも、私生活では投資に失敗と散々。スナイダーは借金返済のためにサイン会イベントに積極的に出向いたが、95年にそこで得た10万ドル強の収入を報告していないことがバレ、罰金&2年間の保護観察処分と晩節を汚してしまった。