ヒュー・ケイシー
BRO(1939-1942,1946-1948)-PIT(1949)-NYY(1949)
通算成績 343登板 75勝42敗 防御率3.45 349奪三振 54セーブ fWAR6.5
獲得タイトル:特になし
1942年 50登板 6勝3敗 防御率2.25 54奪三振 13セーブ fWAR1.0
天敵はヘミングウェイ
1940年代にセーブの概念があったなら、2度のセーブ王に輝いていたブルックリン・ドジャースのリリーフエース。
マイナー時代は優れたカーブを投げる速球派投手という評判だったが、1937年開幕前に腕を痛め、自慢の球速は大幅にダウン。投球スタイルの見直しを迫られたケイシーはスプリッター*1を習得し、遅い速球をカバーすることに成功。
1939年にはドジャースの先発ローテーションの一角を担い、15勝10敗、防御率3.14と好成績をマーク。
その後、ケイシーは1941年シーズン途中にリリーバーに転向。1942年にはリーグ最多の13セーブをマークするなどリリーフエースとして試合終盤を任されるようになった。
1943年からは兵役でチームを3年間離脱。復帰1年目の1946年は46登板で防御率1.99とブランクを感じさせないピッチングを披露。続く47年には再びリリーフエースとして起用され、リーグ最多の18セーブをマーク。
ケイシーは現役時代からアルコール依存症に苦しみ、1948年には激太りしてキャンプイン。さらに5月にはおそらく酔っ払ってアパートの階段から転落し、2ヶ月以上ボールを投げられない大怪我を負う始末。
ケイシーは現役引退後、ステーキハウスを開業したが、親権をめぐる裁判や心臓の病気に苦しみ、現役引退からわずか2年後の1951年の7月に拳銃自殺でこの世を去った。
球種はスライダー、カーブ、SFF。
Nishiのこぼれ話
ケイシーは酔っ払うと暴れるタイプ。1942年には大の野球好きであった文豪アーネスト・ヘミングウェイとの飲み会で、いつの間にかボクシングが始まり、テーブル、椅子、グラスが飛び交う大乱闘に発展。
*1:スピットボールという説もある