ロジャース・ホーンスビー
STL(1915-1926)-NYG(1927)-BSN(1928)-CHC(1929-1932)-STL(1933)-STB(1933-1937)
通算成績 2259試合 .358 2930安打 301本塁打 1584打点 135盗塁 fWAR129.1
獲得タイトル:MVP2回、首位打者7回、本塁打王2回、打点王4回
1924年 143試合 .424 227安打 25本塁打 94打点 5盗塁 fWAR12.2
Rajah
打率4割を3回もクリアした史上最高のバッターのひとり。
ホーンスビーは1915年に19歳の若さでメジャーデビュー。翌年にはサードを中心に内野を満遍なく守れる今風にいうユーティリティプレイヤーとしてスタメンに定着。
1910年代のホーンスビーは毎年3割を期待できる巧打者という印象だったが、ライブボール時代に突入した1920年代に入るとリーグ屈指のホームランとアベレージを両立する強打者に変貌。
ホーンスビーはこの10年間で7度の首位打者、3度の打率4割、2度の三冠王に輝き、1924年にはライブボール時代以降において歴代最高となる打率.424をマーク。
また、ホーンスビーは1925年からカーディナルスの選手兼監督に就任しており、監督2年目の26年には見事ワールドシリーズ制覇を成し遂げている。
同年オフにカーディナルスと年棒をめぐる契約交渉が決裂すると、トレードでジャイアンツに移籍。
ジャイアンツでも打率.361とハイアベレージを記録したものの、この頃からホーンスビーは競馬などギャンブルにのめり込んでおり、フロントが不信感を募らせ、オフにブレーブスにトレード。
ブレーブスでは打率.387でキャリア7回目の首位打者に輝いたが、ブレーブスは下位に沈み、財政も悪化していたため、今度はオフにカブスへトレード。
カブスに加入した1929年は打率.380、39本塁打、チーム記録となる156得点と大活躍。同年オフにはMVPに輝いている。
1930年に入るとホーンスビーは足の故障に苦しみ、レギュラーとしてプレーする機会が激減。本来であれば引退も視野に入る状態であったが、ギャンブルの借金返済のため選手兼監督としてブラウンズで指揮をとり、晩年はメキシカンリーグでも監督を勤めていた。
ホーンスビーの通算打率.358はタイ・カッブ、オスカー・チャールストンに次ぐMLB歴代3位の大記録であり、ライブボール時代以降にプレーした選手の中では1位の数字。
ホーンスビーは1942年に殿堂入りを果たし、1999年にはMLB歴代ベストメンバーを決めるオールセンチュリーチームのセカンドとして選出されている。
査定に関して
走力A
ホーンスビーは盗塁数こそは多くないものの、若手時代は球界屈指の俊足選手として知られており、学生時代は陸上選手よりも早かったと言われている。
走塁A
ホーンスビーはベースランニングが非常に上手く、通算で23本のランニングホームランを記録。24年も2本のランニングホームランを記録している。
広角打法・ラインドライブ
ホーンスビーは若手時代から広角に打球を飛ばせるラインドライブヒッターとして知られていた。
固め打ち
ホーンスビーは1923年にMLB記録となる13試合連続マルチ安打を記録。
1924年も29試合で猛打賞を記録している。
アウトコースヒッター・選球眼
ホーンスビーは大きく踏み込むバッティングスタイルからインコースを苦手としていたが、1920年代に入るとホーンスビーの高い選球眼も相まって、ホーンスビーが内角球をのけぞると審判がボールをコールするようになったという。
サヨナラ男
1924年8月24日のロビンズ戦でサヨナラ本塁打を記録。