キャットフィッシュ・ハンター

OAK(1965-1974)-NYY(1975-1979)
通算成績 500登板 224勝166敗 防御率3.26 2012奪三振 1セーブ fWAR37.2
獲得タイトル:サイ・ヤング賞1回、最優秀防御率1回、最多勝利2回
1974年 41登板 25勝12敗 防御率2.49 143奪三振 fWAR5.8
Catfish
ライブボール時代以降では、MLB史上最年少(31歳)で200勝のマイルストーンに到達した1970年代最強の先発右腕のひとり。
ハンターは学生時代に野球のみならず、フットボールや陸上でも結果を残してきた生粋のアスリート。
しかし、1963年に兄とハンティングをしていた際、兄がショットガンを誤射し、ハンターの右の小指が吹っ飛ぶという重傷を負い、緊急手術を受けることに。幸い野球への影響は少なく、ハンターは翌年アスレティックスと契約を結ぶと65年にはマイナーを一切経由せずにメジャーデビューを果たした。
ハンターは抜群の制球力を武器にアスレティックスのエースに成長し、1971年から5シーズン連続でシーズン20勝以上をマーク。1974年にはリーグ最多の25勝、防御率2.49と投手二冠に輝き、WHIPもリーグトップの0.98と素晴らしい成績を残し、サイ・ヤング賞のタイトルを獲得。
当時のアスレティックスは右のハンター、左のブルーというダブルエース体制でナ・リーグ西地区5連覇、ワールドシリーズも72年から3連覇とまさに黄金時代。
しかし、オーナーのフィンリー氏がハンターの給料を契約通りに払わなかったことで、ハンターが74年オフにFAとなり、そこからスター選手が相次いで他球団に流出し、暗黒時代を歩むことになってしまった。
ハンターは74年オフにヤンキースと当時のFA選手としては最高額となる5年320万ドルの契約に合意。ハンターは75年もリーグ最多の23勝と結果を残し、サイ・ヤング賞投票でもジム・パーマーに次ぐ2位にランクインした。
ハンターは77年以降、故障に悩まされ、先発ローテーションを外れることも多かったが、77年からヤンキースは2度のワールドシリーズを制覇しており、ハンターはキャリアを通して5回の世界一を経験した。
ハンターは前述の故障に加え、糖尿病と診断され、1979年シーズン終了後、33歳の若さで現役を引退。引退後は、農家に加え、糖尿病啓発活動に取り組んでいたが、1998年にALSと診断され、翌年自宅で転倒し、53歳でこの世を去った。
ハンターは1987年に殿堂入りを果たしており、背番号27はアスレティックスの永久欠番に指定されている。
球種はスライダー、カーブ、チェンジアップ。



査定に関して
コントロールA・低め◯
ハンターは抜群の制球力を誇るコントロール・アーティストとして知られており、1974年も与四球率1.4と優秀だった。
Nishiのこぼれ話
登録名のキャットフィッシュ(ナマズ)はニックネームで、本名はジェームズ・ハンター。このニックネームは当時のアスレティックスのオーナー、フィンリー氏が若手のハンターに何か派手なニックネームが必要と考え、ハンターがナマズ釣りを趣味としていたことからつけたものだと言われている。
関連選手:アスレティックスの左のエース
ヴァイダ・ブルー