J.R.リチャード

HOU(1971-1980)
通算成績 238登板 107勝71敗 防御率3.15 1493奪三振 fWAR32.4
獲得タイトル:最多奪三振2回
1979年 38登板 18勝13敗 防御率2.71 313奪三振 fWAR8.9
悲運のエース
身長2メートル3センチの巨体から最速163キロのシンカーと150キロを超えることもある高速スライダーのコンビネーションで三振の山を築いたアストロズのエース。
リチャードは1971年9月5日にウィリー・メイズ擁するサンフランシスコ・ジャイアンツから15奪三振と鮮烈デビュー。これは現在もデビュー戦での最多奪三振タイ記録*1となっている。
若手時代から並々ならぬポテンシャルを見せつけていたものの、当時のアストロズ先発陣の層が厚かったことや、深刻な制球難に苦しんだことで1974年まではメジャーとマイナーを往復。
本人は記者に「自分が先発ローテーションに入れないのは人種差別のせいだ」と不満を漏らすようにフラストレーションがたまっていたが、1975年1月に当時のエース、ドン・ウィルソンが事故死するという悲劇が発生。
その枠を埋める形でリチャードは同年から先発ローテーションに定着すると、与四球率6.1とコントロールはMLBワーストクラスであったものの、12勝、防御率4.39とまずまずのピッチングを披露。
リチャードは75年オフに、フォーム修正とクリスチャンの啓蒙を受け、メンタル面が改善されたことで、コントロールが向上。1976年には与四球率が4.7にまで下がり、20勝、防御率2.75とエース級の好成績を記録。サイ・ヤング賞投票でも7位にランクインした。
リチャードの全盛期は1978年からの3シーズン。この頃はノーラン・ライアンと双璧を成す、MLB屈指の奪三振マシーンとして大暴れ。
1978年は18勝、防御率3.11、ナ・リーグにおける右投手としては歴代最多となる303奪三振を記録。シーズンを通しての被打率.196はリーグトップの数字であり、サイ・ヤング賞投票でも4位に輝いた。
1979年は前年の勢いそのままに奪三振を量産。シーズンを通して二桁三振を奪った試合は14回にのぼり、キャリアハイかつリーグトップの313奪三振を記録。また、長年の課題であった制球難も、同年には与四球率3.0と完全に克服し、K/BB3.19はリーグ最高の水準だった。
また、防御率2.71もリーグ最高の数字であり、サイ・ヤング賞投票ではブルース・スーター、ジョー・ニークロに次ぐ、3位と自己ベストを更新した。
1980年には、ノーラン・ライアンがアストロズに加入し、球界屈指の奪三振マシーン2人を擁する先発ローテーションを形成。リチャードは前半戦の時点で防御率1.96と驚異的なピッチングを披露していたが、脳卒中を起こし、左半身の麻痺を患い、30歳の若さで事実上の引退となった。
引退後は、離婚や投資の失敗などが重なり、1990年代にはヒューストンの高架下でホームレス生活を送っていたが、1995年に教会や周囲の支えもあり、ホームレス生活を脱出。晩年は牧師としての活動に加え、ヒューストンでの子ども向け野球プログラムの設立なども行なっていた。
球種はツーシーム、Hスライダー、Vスライダー。



査定に関して
クイックF・対ランナー×
リチャードはシーズンで28盗塁を許すなど、クイックをしないタイプのピッチャー。また、ランナー1塁の場面では被打率が.285に跳ね上がっており、ランナーを背負うと投球に悪影響が出るのは明らか。
逃げ球
リチャードはキャリア通算の被本塁打率0.41とホームランを打たれることが少ないピッチャー。
荒れ球
1979年はコントロールこそは若手時代と比べて大幅に向上していたものの、開幕から2戦目のドジャース戦で6暴投と荒れ球は相変わらずだった。
*1:1954年にカール・スプーナーもデビュー戦で15奪三振を記録